http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071209-00000269-mailo-l28
◇「明日のない日々」生き抜く−−旧日本海軍爆撃機操縦士・堀建二さん(87)=西宮市
太平洋戦争の開戦となる1941年12月8日の真珠湾攻撃に参加し、その後の激戦で辛くも生き残った兵士が西宮市にいる。旧日本海軍で艦上爆撃機の操縦士だった堀建二さん(87)。「同期兵の約75%が戦死した。それが我々の青春だった」と話す。戦争体験を若い世代に語る場に出たこともあるが、「体力的にもう講演はできないでしょう」という堀さんは「戦後日本のこの平和をいつまでも守ってほしい」と静かに願いを語った。【田畑知之】
◇「同期の75%が戦死」
ちょうど66年前。
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太平洋上に浮かぶ空母瑞鶴(ずいかく)から九九式艦上爆撃機で発進し、約1時間。早朝のハワイ・オアフ島のホイラー飛行場を急降下爆撃した。自分が投下した爆弾で米軍機が飛び散るのを見た。21歳で初陣の堀さんは、その前夜に遺書を書き、白装束を意識して真新しい下着に着替えた。「もう死んでもいい、と高ぶっていた」
出撃した艦上爆撃機129機中、15機は帰還しなかった。夕食は、帰らない搭乗員の分も配られた。手がつけられていない「祝いの膳」を見て、朝は横にいた同僚を思い、沈痛な気分にもなった。だが、戦友とは「明日は米本土を攻撃すべきだ」と話し、高揚したままだった。
珊瑚(さんご)海海戦(42年5月)では、戦闘機の援護なしに薄暮攻撃に飛び立ち、米戦闘機の攻撃を受けた僚機が火だるまになって墜落していくのを見た...
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